原水爆禁止世界大会について

 1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下し、続いて9日、長崎に原爆を投下しました。原爆による熱線と爆風、放射線によって、二つの街は一瞬にして破壊され、この年の12月末日まで、広島で約14万人、長崎で約7万人の命が奪われました。
 第二次世界大戦後は、アメリカとソ連の対立が激化し、核軍拡競争が繰り広げられました。1954年3月1日、アメリカが太平洋ビキニ環礁でおこなった水爆実験によって、日本のマグロ漁船第五福竜丸が「死の灰」を浴び、乗組員の久保山愛吉さんが亡くなりました。
このビキニ事件をきっかけに、各地で水爆禁止の署名運動が始まりました。杉並区のお母さんたちは「私たち日本国民は、三たびまで原水爆のひどい被害をうけました」「アインシュタイン博士をはじめ世界の科学者たちは、原子戦争によって人類は滅びると警告しています」「署名運動で水爆禁止を真剣に訴えるとき、私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし、人類の生命と幸福を守る方向へ一歩進めることができると信じます」という杉並アピールを発表し、「全国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」とよびかけました。「原爆許すまじ」の声が全国に広がり、核兵器の廃絶を求める「原水爆禁止署名」は3400万人にのぼりました。
 日本各地で原水爆禁止を求める国民の声が高まる中で、1955年8月6日、原水爆禁止世界大会が広島で開催されました。この大会で被爆者の山口みさ子さんは「私は原爆のとき15歳でした。ごらんのとおり顔にひどいやけどをしたほか、全身に放射能をあびて、7ヶ月入院しました。帰ってみれば父も母も弟も死に、家は影も形もありませんでした。それからの10年という長い苦しい生活をみなさんにわかっていただくことが・・・どうかこの地上に原水爆を落とさないでください」と涙ながら訴えました。大会では「原水爆被害者の不幸な実相は、ひろく世界に知られなければなりません。その救済は世界的な救済運動を通じて急がれなければなりません。それがほんとうの原水爆禁止運動の基礎であります。原水爆が禁止されてこそ、真に被害者を救うことができます」と宣言しました。
 その後、毎年、原水爆禁止世界大会が開催されて、現在に至っています。いまや核兵器廃絶は世界の大きな流れに発展しています。





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